日本の国民食になったラーメンのあれこれを、商標を切り口に巡っていく「ラーメン商標記」シリーズ。
前回の記事では、現存する日本最古のラーメン商標「ハイラーメン」をお取り寄せして実食しました。ただ、「ハイラーメン」が日本のラーメンの元祖というわけではありません。
日本の最古のラーメンははるか昔。「1488年、室町時代に来客にふるまわれた『経帯麺』が原型」とも、「1697年、徳川光圀公が家臣にふるまったとされる中華麺が原型」とも伝わっています。(日本最古のラーメン発見! 「水戸黄門説」覆す室町時代の記録)
ただ、この2つの原型は民間に広がることはありませんでした。では、庶民にラーメンが広がるきっかけは何だったのか。これは、浅草に1910年に開業した中華料理店「来々軒」が、今につながるラーメンブームの火付け役だったと言われています。
そこで第2杯目は、伝説の浅草「来々軒」とはどんな店で、どんなラーメンを出していたのか?、商標情報を交えて掘り下げていきます。
1,「来々軒」の商標は現存しているの?
まずは商標データベース(J-PlatPat)で「来々軒」を検索してみます。
称呼「ライライケン」、区分は第43類「飲食物の提供」で検索したところ、2023年8月現在で、権利存続している商標は4件でした。
最初の1件目は三重県鈴鹿市のとんてき(豚ステーキ)屋さんが権利者で、ラーメンとは無関係でした。続く2件目は「軒々來」と左右をひっくり返したロゴ。不思議な表記です。
気になって権利者を調べてみたところ、新聞記事がHIT。
高橋 雄作氏は、浅草・来々軒の創業者である、尾崎貫一氏の玄孫、つまり4代下った子孫の方による商標登録出願でした。
日本ラーメンの草分け、浅草・来々軒の「らうめん」復元 新横浜ラーメン博物館で14日から販売:東京新聞 TOKYO Webより引用
1914年ごろの浅草・来々軒の写真をみると、「軒々來」と右からの表記になっていることがわかります。商標の出願も当時の看板を意識したのでしょう。
では、なぜ令和に入って出願?と疑問に持ったのですが、2010年10月から新横浜ラーメン博物館で、浅草・来々軒でだしていた「らうめん」の復元企画を行い、今も館内で提供しているとのこと。
浅草・来々軒は1976年に閉店してしまっているので、これは渡りに船ですね。
ただ、現地に行く前にまだ疑問が1つ。誰も「来々軒」の文字のみでは商標登録をせず、「軒々来」のようにロゴ化するか、「仙八来々軒」のように、他の言葉と組み合わせて登録しています。もしかして「来々軒」の文字商標だけでは登録が認められない事情があるのでしょうか?
・・・さらに調べていくと気になる商標が。2017年に出願された「元祖 東京ラーメン 来々軒」が拒絶理由通知を受けた後、出願取下されています。
この商標が登録できなかった理由に、ヒントがありそうです。
少し古い書類なのでオンライン上では閲覧できず、拒絶理由通知書を特許庁から取り寄せてみました。
■第3条第1項第6号(第1号から第5号までのほか、識別力のないもの)
この商標登録出願に係る商標(以下「本願商標」といいます。)は、「元祖東京ラーメン 来々軒」の文字を標準文字で表してなるところ、その構成中の「元祖」の文字は、「あることを初めてしだした人。創始者。」の意味合いを表し(岩波書店『広辞苑』第6版)、食品を取り扱う分野においても、「元祖○○」の文字は、創始者もしくはその家系をくむ者がつくったもの、あるいはその商品の品質・役務の質の誇称表示として一般に用いられているものです。
そして、その構成中の「東京ラーメン」の文字は、「東京で製造又は販売されるラーメン」ほどの意味合いを認識させる語です。
また、その構成中の「来々軒」の文字は、この商標登録出願に係る指定役務中「飲食物の提供」との関係において、中華料理を提供する店の店名として多数使用されているものです。
そうとすれば、「元祖」「東京ラーメン」「来々軒」の語は、本願指定役務中「飲食物の提供」との関係においては、いずれも極めて識別力の弱い語ですから、これらを併記したにすぎない本願商標をこの商標登録出願に係る指定役務中「飲食物の提供」に使用しても、これに接する需要者は、店名として多数使用されている商標であることを認識するにとどまり、何人かの業務に係る商品であることを認識することができないものと認めます。
拒絶理由通知書(商標2017-117146) 理由1より引用
なるほど、「来々軒」は、中華料理を提供する店の店名として多数使用されているので識別力が弱く、単体では登録できないと、特許庁の審査官が判断していたのですね。
あくまで出願された商標ごとに行われる判断ではありますが、「来々軒」が大きな影響力がある名前で、独占が認めらなかったほどだというのは興味深い。ますます気になってきたところで、横浜に向かいましょう。
2,横浜へ「来々軒」を求めて
東京からいざ新横浜へ。東急新横浜線開通で、新幹線に乗らなくても行きやすくなりました。
ラーメン博物館は新横浜駅より徒歩5分です。
分かりやすい看板が見えてきました。入場券を買って、中に入ります。
ラーメン博物館は1Fが展示、地下に複数のラーメン店が出店という構造になっています。お昼時についたので少しお店は並んでいる模様。まずは1Fから見ていきます。
いきなり来々軒の展示がありました!大正期の店構えを再現したようです。
「日本のラーメンブームはこの店から始まった」との力強い解説が。明治43年創業、繁忙期には1日2,500~3,000人の来客がある大繁盛店で、中でも「支那そば(ラーメン)」が一番人気だったそうです。
当時の新聞・雑誌の再録もありました。
浅草の事情を知らない者でも、来々軒といえば、其の名と所在を知っていると言う全く畸型的な程、其の存在は有名であった。
「浅草に行けば来々軒だ」と朝出るときに既に心の準備を整えて来る者が数限りなくあったものだ。(浅草経済学 昭和8年)
など、やはり相当の人気だった様子。しかし何故、横浜で来々軒をフューチャーしているのか?実はその点の解説もありました。
創業者の尾崎貫一氏は来々軒の開業前は横浜税関に勤め、現在の伊勢佐木町に住んでいました。伊勢佐木町は有数の歓楽街として栄え、中華街もほど近くです。
中華街では明治30年ごろには細切りの豚肉を入れた「豚蕎麦(ラウメン)」がすでに供され、中国人居住者を中心に人気を博していました。
このラウメン、塩味ベースで脂の味が強く、まだ肉食文化に慣れていない日本人にはまだハードルが高い料理だったようですが、尾崎貫一氏は日本人になじみが深い醤油味のスープにアレンジし、浅草の自分の店で出したそうです。
もともと尾崎氏は浅草で生まれ育ったため土地勘もあり、さらに中国人コックをスカウトして本格的な料理を出したり、また新聞・雑誌といったメディアでの宣伝・広告にも力を入れていたため、大成功を収めたそうです。
その影響力の証がこちら。
全国の来々軒情報です。現在確認できるだけでも日本全国171軒、パリやニューヨークにも「来々軒」の屋号があるとか。お店に聞いた名前の由来も「ラーメンといえば『来々軒』というイメージだからつけた」という答えが一位。
面白いのが、「三つ目がとおる」、「レッツラゴン」、「サザエさん」といった人気漫画、太宰治の「斜陽」でも来々軒の名前が出てくるということ。SANYOのパチンコにもなったそうです。
これは特許庁も、標準文字では登録を認めないわけですね・・。
3,浅草「来々軒」で出されていたラーメンとは?
来々軒の歴史にも詳しくなり、大分お腹も空いてきました。そろそろ地下に移動します。
ラーメン博物館は昭和の街並みが再現され、中に実際に入れるラーメン屋さんが散在している構成です。お店は一部入れ替え制で、訪問時点でも7店舗が営業中。これは年間パスを買う人が多いのも分かります。
駄菓子屋さんもあったりするので、家族で行くのもおススメ。しばし探索し・・
ありました、来々軒!
引きだとこんな感じ。お客さん、結構入ってますね。
オーダーは食券制。「らうめん(青竹打ち)」は創業当時の手打麺を再現したそうです。これは選ばなければ。また、当時人気だったシウマイもサイドメニューにしっかりあります。
店内に入って待つことしばし。
きました!これが来々軒を再現した「らうめん」です。
スープは豚・鶏・野菜を焚き上げたしょうゆベース。HPの解説によれば、昭和初期ごろから加えられた煮干しも使用されています。
有名店「支那そばや」が再現・運営をされているだけあり、いわゆる街中華のあっさり醤油ラーメンを1段グレードアップさせた味。かなり美味しいですね。
手打麺をリフト。小麦粉も再現へのこだわりで、明治時代に栽培されていた小麦の遺伝子を持つ後継品種「さとのそら」を使用。
ちなみに青竹で打つとコシが強くなるイメージですが、実際には麺の生地に気泡が入り込むため、機械製麺よりやわらかく、のどごしが良い麺になります。
当時はラーメン文化がなく、かけ蕎麦がノーマルでしたから青竹打ちのソフトな麺はお客さんに受け入れやすかったのでしょう。そのあたりもブームの一端だったのかもしれません。
サイドメニューのシウマイもお肉たっぷりで、名脇役。注文して正解でした。
わざわざ箸袋もこの再現企画のために作っているのは、気合が入っています。
具材のチャーシューも直火のつるし焼きで再現。昔ながらの味ですね。今時の低温調理レアチャーシューももちろん美味しいですが、この醤油ラーメンにはやはり伝統チャーシューでしょう。
ラーメンの昔に思いをはせながら完食、ごちそうさまでした!
おわりに~また別のオリジンの可能性
食べ終わり、1Fの展示を改めて見てみます。
全国のご当地ラーメンを模した日本地図がありました。さらにラーメンは日本から世界に飛び出し、各国で人気店が生まれています。
訪問時もミラノから「カーザルカ」がはるばる出店していました。まさにラーメンは世界です。
・・ラーメンが日本中・そして世界に広がるきっかけとして、明治にラーメンブームを作った浅草・来々軒の功績は大きいものでした。その来々軒が令和の現在、創業へのインスピレーションを与えた横浜で出店していることは、とても意義深い。ラーメン好きなら、是非一度訪れたい名所であることは間違いありません。
ただ一方で、個人的にはこんな感想も。
ラーメン博物館で出されていた来々軒のラーメンは、「ちょっと美味しすぎる」気もしました。多くの人が訪れるラーメン博物館という場所柄、「こんなものなの?」とお客さんを失望させないよう、商品としてアップグレードされた部分もあるのではと。
また、来々軒の味もお客のニーズに合わせて変わっていったのではという指摘もあります。来々軒が浅草で営業していたのは1944年まで。ラーメン屋としてお客に合わせて味をブラッシュアップしていくことは必然です。つまり、ラーメン博物館の「来々軒」ラーメンは、ある程度進化した、後期の味を再現している可能性もありそうです。
・・・「来々軒」のらうめんが思った以上に美味しかったために、逆に疑問がわいてきました。もっとソリッドな原型を食べてみたい。ラーメン好きとは厄介なものです。そこで調べてみたところ、見つけました。
岐阜の丸デブ総本店。こちらは大正時代に浅草・来々軒で修行した創業者が故郷に戻り、1917年に創業したお店とのこと。そのインタビューに気になる言葉が。
「大正時代の岐阜の人間が、なぜ東京の浅草に行ったのか。そのあたりの経緯はよくわからないのですが、ともかく『来々軒』で習った味を地元に持ち帰ってきた。それが当店の始まりだと聞いています」
メニューは今も昔も「中華そば」(400円)と「わんたん」(400円)の2種類のみ。どちらのツユも、鶏ガラでダシをとった昔ながらの醤油味だ。「うちは創業のときからこの味。まったく何1つ変えていません」と利夫さんは胸を張る。
【第25回】2017年で創業100周年!大正時代から変わらぬ味の中華そばが食べられる「丸デブ 総本店」|ウォーカープラス
のれん分けではない以上、浅草・来々軒=丸デブの味とは言えないのでしょうが、100年間味を変えていないということは、より当時のオリジンに近いラーメンが食べれる可能性があるのでは!?
そこで次回は岐阜まで出張し、丸デブの味を確認してきます!
参考:
次回もお楽しみに!