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どうして「特許明細書」は死ぬほど分かりにくいのか ~特許翻訳者が見た、マニアック翻訳の世界~

「日本語で書いてあるのに読んでもまったく意味が分からない」

そんな経験、ありませんか。

学生のころから本好きで、読解力にはちょっとした自信がありました。しかしある文書を読み、その自信は崩れ去ったのです。

その文書ってなに?そう思ったあなたに質問です。

「特許明細書」って、聞いたことありますか?それは特許について書かれた書類のこと。

 ♢

 いまから20年前。“特許翻訳者”という仕事を知り、特許翻訳者養成コースに参加しました。初日の授業で目にしたのが下の例文。

特許明細書のキモといわれる「特許請求の範囲」です。

 【請求項1】  内蔵した送受信アンテナを介して外部の通信装置との間で無線による送受信を行う無線通信機能、および上記送受信アンテナを介して受信した上記通信装置からの電波を電力に変換して無線カード内で用いる電源を生成する電源生成機能を有する無線カードを、脱着自在に保持する保持手段と、

上記通信装置から送信される電波を受信する受信アンテナと、

この受信アンテナで受信した電波を増幅する増幅手段と、

この増幅手段で増幅した電波を上記保持手段にて保持された無線カードへ送信する送信アンテナと、

上記増幅手段に対して動作用の電力を供給する電源と、

これら保持手段、受信アンテナ、増幅手段、送信アンテナ、および電源を搭載したアダプタ本体と、を有し、

上記受信アンテナおよび送信アンテナをそれぞれループ状に形成し、且つ該受信アンテナおよび送信アンテナが互いに所定長の重複する部分を持つよう、該受信アンテナおよび送信アンテナを略同一平面上に配置してなることを特徴とする無線カードアダプタ。(特開平11-98063)

 なにこれ?わけが分からない。

脳は拒否反応を起こし、思考はすぐにストップ。しばらくの間、この1文を阿呆のようにただ眺めていました。

こんなに長い1文、ある?

何回読んでも意味が分からない。内容が頭に入ってこないんです。そのときに思いました。「悔しい!」と。

日本語を使うネイティブとして日本で生まれ育ったというのに、この日本語をまったく理解できない。

「悔しい。攻略したい」

それが、”特許翻訳者”にわたしはなるっ!と決めた理由です。

ゲストライター紹介

み・カミーノさん:特許翻訳歴16年のフリーランス翻訳者&ときどきライター。おもに通信・情報、電気・電子、機械分野の明細書を英語に翻訳しています。ライフワークは書くこと、ゴスペル、国際交流。仕事の話、日々の気づき、エッセイなどをnote (https://note.com/bousuku_keyman)に書いています。

1.特許明細書が分かりにくいワケ

特許ってなに?

特許とは、国から、あなただけが特別に使ってもいいよと認められたアイデアの範囲です。ある発明に特許権が与えられると、更新すれば約20年間、他の人はその技術を真似できません。

さきほどのの例文から分かるように、特許明細書は非常に難解なことで有名です。ぶっちゃけ、死ぬほど分かりにくい。

知財業界にいる人をのぞけば、あの文章を読みはじめた人は、100%の確率で途中で読むのを止めるでしょう。

明細書ってどうしてそんなに分かりにくいの?

特許明細書が死ぬほど分かりにくいのはなぜか?その理由を3つほど挙げてみます。

1つ目に、特許明細書は、科学技術文書であると同時に法律文書でもあります。権利範囲をできるだけ広く取ろうとするために、言葉は抽象的になりがちです。

例えば、画期的な形状のタイヤを発明したとして、構成要素に「ゴム」と記載したらどうでしょうか。今は技術の進化によってエラストマー樹脂など、新素材をタイヤに使うこともできるようです。ただ、権利範囲にゴムと書いてしまった以上、別素材を使った同じ形状のタイヤには権利行使できない・・なんてことが起こります。

そこで、特許の世界では「ゴム」と言わず「弾性体」と言いましょう、なんて指導が行われます。弾性体であれば、ゴムでも新素材でも、力を加えると変形するが、力を除くと元の形に戻る物体を含めることができます。

ただ、この結果、特許明細書の用語はどんどん抽象的になっていくのでした。

2つ目に、分かりやすく書くことよりも、書くべきことをきちんと書くことが重視されています。

例えば、断面が正方形の鉛筆を発明したとします。そのまま「断面が正方形の鉛筆」と記載すると、断面が六角形の鉛筆は該当しません。六角形は正方形ではないからです。もしも将来誰かが、断面が六角形の鉛筆を製造販売しても、特許権侵害に問うことはできません。このケースを念頭におくと、「断面が多角形の鉛筆」と記載したほうがよいのです。強い特許権をとることができるからです。

そうは言っても「多角形」ってどんな形?分かりにくいですよね。

でも、特許明細書は権利書として機能する文書なので、分かりやすさよりも「漏れのないこと」が重視されるんです。特許庁の審査官、審判官、裁判所の裁判官、訴訟の相手方に対して「ここに書いてあるでしょ!」と示すことができる。それが第一だからです。

3つ目に、発明に必要な事がらをすべて文章で表現しなくてはならないから。特許明細書には図面も含まれますが、図面はあくまでも補助。文章だけで表現しようとするので、長文で回りくどくなります。

しかも、特有の表現がたくさんあります。

係合(けいごう)、枢着(すうちゃく)、回動(かいどう)・・日常生活ではまず使わないですよね?

そんな「分かりにくく、とっつきにくい」特許明細書ですが、実は中身はさまざま。書いた人のオリジナリティが出ます。

特許事務所で働いていたころ、あるクライアントが、似たような発明を複数の特許として出願したことがありました。そのとき、各発明の明細書を別々の弁理士が書きました。

すべての明細書を読みましたが、発明の内容が似ていてもこんなに書きっぷりが違うのかと驚いたものです。個性が出ていて、とても面白かったです。

最初のハードルは高いものの、いざその世界に入り込むと、翻訳する書類に「多様性」があるのが特許翻訳の面白さだと思います。

2、特許翻訳者ってどういう仕事?

特許翻訳歴16年の私は、日本語から英語に翻訳する「日英翻訳者」ですが、英語から日本語に翻訳する「英日翻訳者」もいます。また英語だけでなく、中国語、韓国語、ドイツ語、フランス語などを専門とする翻訳者もいます。

どういうときに特許翻訳者の仕事があるの?

特許翻訳者の仕事はどんなときにあるのでしょうか。今回は、私のような日英翻訳者のケースを紹介します。主に3つのパターンの仕事があります。 

①    日本から外国に特許出願するとき
これがメインの仕事です。日本語で書かれた特許明細書を英語に翻訳します。

②     中間処理のとき
外国の特許庁に出願すると、審査官がその発明を詳しく審査します。審査内容に応じて、審査官に反論したり、出願した書類を修正する必要があります。これを中間処理と呼ぶのですが、審査に関連する書類やレター、意見書などを翻訳します。

③     IDSを提出するとき
アメリカに出願すると、情報開示義務(Information Disclosure Statement、略してIDS)というものが課せられます。その義務を果たすために必要な書類を翻訳します。 

これら3つの仕事では、書類のボリューム、難易度、作業にかかる時間がそれぞれ違います。

1つの仕事にはどれくらい時間がかかる?

まず、①特許明細書の翻訳の場合です。

日本語の明細書の長さにもよりますが、12,000文字の日本語を英語に翻訳しチェックするのに、1週間ほどかかります。

私は最近、日本語で50,000文字超えの明細書を翻訳する機会が多いのですが、完成するまでに3週間ほどかかります。

次に、②中間書類の翻訳は、日本語のボリュームのわりに時間や手間がかかります。

なぜなら、参照する文献や資料が多いからです。①特許明細書の翻訳は、その発明の技術を理解すればできますが、②中間書類の翻訳はそうはいきません。

 理解すべき書類が多くあるからです。例えば、審査官の主張、関連する技術文献、出願人の主張などです。多くの資料を読まないと処理できないので難易度は高いですが、やり甲斐もあります。

最後に、③IDSの翻訳は、それほど時間はかかりません。かなりパターン化されていて、英語として意味さえ通じればよく、文献を読み解く必要もないからです。最近では、機械翻訳で対応する場合もあるくらいです。

私の場合ですが、①7.5割、②2割、③0.5割ぐらいで時間を割いて対応しています。

仕事環境や使っているツールは?

私はこの5月からフリーランスになりました。家では23.8インチのディスプレイを2台使い、デュアルディスプレイ環境で仕事をしています。

 主に使う辞書は、オンライン辞書(LONGMAN、Oxford Learner’s Dictionaries等多数)、DDwinという辞書検索ソフト、自分専用の用語リストです。

特に優れモノがDDwin。複数の辞書を同時に検索できる「串刺し検索」が可能なソフトです。調べたい単語を入れると、国語辞典、百科事典、和英、英和、英英、ビジネス用語辞典などを一括で検索し、結果を一覧表示してくれます。単語だけでなく例文も表示され、とても親切。私は30以上の電子辞書をDDwinに入れています。

 DDwinがないと仕事が立ち行かないほどですが、このツールはフリーソフトとして無料で公開されています。開発者さんには感謝しきれないほどです。

DDwinをはじめとした辞書ツールを駆使しつつ、実際の翻訳は、クライアントのリクエストに合わせてWordで作成したり、Memsourceという翻訳管理ツールを使って翻訳したりします。TradosなどのCAT(Computer-Assisted Translation=コンピュータ翻訳支援)ツールを使う翻訳者も多いです。

 お給料の体系や「単価」のはなし

フリーランスになる前の16年間は、特許事務所で翻訳をしていました。

給料体系は事務所によりますが、私の勤めていた事務所では一般企業と同じようなシステム。つまり、月給+年2回の賞与というスタイルでした。

事務所によっては、完全歩合制のところも。つまり、お給料は翻訳した単語の数によって決まります。

数年前に聞いた話ですが、例えば毎月、英単語40,000~50,000ワードを翻訳する場合、翻訳者の年収は400~500万円。毎月、英単語60,000~70,000ワードを翻訳する場合、翻訳者の年収は600~700万円でした。

では、フリーランスのお給料はどうなの?と思いますよね。

フリーランス翻訳者の収入は、日本語1文字(または英単語1ワード)あたり〇〇円となっています。フリーランスになりたての私は、フリーランス市場をまだつかみ切れていない状態。

文字単価〇〇円、には幅があります。というのも、翻訳発注元、技術分野(化学系、電気/電子系、情報/通信系、機械系)、「日英翻訳者」か「英日翻訳者」かで、少なからず違いがあるからです。

本当にピンキリなのですが、私の聞いている範囲では、「英日翻訳者」は6~10円/日本語1文字、「日英翻訳者」は11~20円/英単語1ワードが最近の金額な様子です。

ただ、20年前に私が特許翻訳者養成コースに通っていたころの話。

当時の先生は、1996年、つまりインターネット普及前からフリーランス特許翻訳者として活躍している方でした。

 当時は常に、仕事はたくさんあるのに優秀な翻訳者が少なかったので、その先生のところには文字単価の高い仕事が次から次へときたそうです。

「年収が1,000万を下回ったことはない」と話していました。

先生からその話を聞き「特許翻訳者って、い、い、1,000万ももらえるの?!」と驚愕したのを覚えています。

ただ、いまは機械翻訳の参入もあり、また機械翻訳を希望するクライアントも増えてきたので、当時と状況はかなり違うはず。

そののち特許翻訳者になった私ですが、どういうわけか、年収1,000万にまったくカスりもしません。

3、特許翻訳者のやりがいと向いてる人は?

特許翻訳、こんなところが楽しい!

「そんなに分かりにくくて、とっつきにくい文章を訳す、特許翻訳のどこが面白いの?」と疑問に思う人がいるかもしれませんね。

翻訳業界のなかでも特に「マニアック」といわれる特許翻訳、実はこんなところが楽しいんです。

 ①     最先端技術に触れられる

なんといってもコレ。まだ世の中に出ていない技術を先に知ることができる。翻訳しながら、知的好奇心が大いに刺激されます。つい先日翻訳した案件は、オンラインがメインになったこの状況だからこそ考えられた発明だな、と思うようなもので、ワクワクしながら翻訳しました。

  ②     調べまくって理解できたときの爽快感

私は文系出身なので、技術内容を読んだだけではピンと来ないこともあります。翻訳するために調べて調べて調べまくって、やっと理解できたときの喜びは格別です。

理系出身の翻訳者は、書かれている技術内容を純粋に楽しめると思います。

③     翻訳した案件が特許登録になったときの喜び

自分が翻訳した案件が、特許庁審査官とのやりとりを経てついに特許登録となり、特許公報として世の中に公開されたとき。なんとも言えない感慨深い気持ちになります。

まるで、手塩にかけて育てた子どもが無事に嫁いだような気分です。

特許翻訳をするようになって変わったこと

特許翻訳者として働くようになってから、日常にも変化がありました。

例えば、“特許出願中”や“特許登録第XXXX号”と商品に書いてあると、ついJ-PlatPat(https://www.j-platpat.inpit.go.jp/)で検索したくなる。

そのほか、自分が翻訳した案件に関する製品を見ると、贔屓したくなります。

かなり前に、プラズマディスプレイパネル(PDP)関連の発明ばかりを訳していた時期がありました。数年ものあいだ、翻訳案件の8割以上がPDP。当時の私は、液晶ディスプレイよりもPDP推しでした。

また、「発明」や「技術開発」などの言葉に敏感になります。仕事上、技術者の苦労話などを耳にする機会も多く、TV番組“プロフェッショナル 仕事の流儀”や“ガイアの夜明け”など、技術者をとりあげた番組を見て感情移入してしまいます。

こんな人が特許翻訳者に向いている

翻訳業界でもマニアックといわれる「特許翻訳」は、どんな人に向いているのでしょうか。

基本はもちろん語学力。でも、語学力だけで特許翻訳者になるとイタイ目に会うかもしれません。私自身、なりたてのころにイタイ目にあったからです。

特許翻訳は「発明」の翻訳なので、科学技術の専門的な知識を豊富にもっている人のほうが圧倒的に強い。科学技術の知識が乏しかった私は、英語力があってもはじめは翻訳できませんでした。

では、足りない科学技術の知識をどう補うのか?

それは、自分で勉強する、これに尽きます。つまり、勉強し続けるのが苦にならない人が特許翻訳者に向いています。科学技術は日々進化しているので、翻訳歴が長くても勉強し続ける必要があるからです。

また、最先端技術を扱う特許翻訳では、発明の内容が斬新なあまり、その業界内で英語の定訳が簡単に見つからないこともあります。

そのときに、どこまで調査できるか?

最適な訳語をエビデンスとともに徹底的に探すことを厭わない。探すときのアンテナの感度が高い。そういった人が特許翻訳者には向いています

 翻訳者は1日中、画面の前で黙々と作業します。長時間だれとも話さずに、机に向かって作業できる人、文字を読み続けるのが苦にならない人、これは翻訳者としての必須条件です。

4、むすび

以上、多くの人には馴染みのない「特許翻訳」の世界を少しだけ紹介してみました。

この記事を読んだあと「特許」や「翻訳」という単語を耳にしたときに、あぁそういえば「特許翻訳」っていう仕事があったな、と思い出してもらえたら嬉しいです。

ほかの人が知らないようなマニアックな世界を知っている!と思うだけで、気分がちょっとアガりますよね。読んでくれたあなたの気分が少しでもアガってくれたのなら、こんなに嬉しいことはありません。

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