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AI時代の「次の一手」をチェス界の発明から考える~世界王者たちは何を変えようとしたのか

チェスは、完成されたゲームのように見えます。

8×8の盤面、64マス。
キング、クイーン、ルーク、ビショップ、ナイト、ポーン。

目的は、相手のキングを追い詰めること。

このシンプルな構造の中に、何世紀にもわたり、知性や芸術性が詰め込まれてきました。チェスをプレイする様子は、さまざまな絵画にも描かれています。

Luigi_Mussini

ルイジ・ムッシーニ「スペイン王宮でのチェス対局」1883年  Wikipedia

チェスは、人類が長い時間をかけて共有してきた、オープンな「知的インフラ」のような存在です。なので、チェスのルールは、特定の誰かが権利として独占するものではなく、特許とは縁が遠い世界のようにも思えます。

しかしチェスに関する特許情報は想像以上に多く、世界王者をはじめとするチェスプレイヤーたちは、ただそのルールの中で戦っていただけではないことが分かります。

第3代世界王者カパブランカは盤と駒を広げようとし、第11代世界王者フィッシャーは時間と初期配置を変えようとした。チェス用品会社を設立したカマラッタはフィッシャーの発明に対する別解を設計し、第13代世界王者カスパロフは人間とコンピューターの関係そのものを問い直した。

ここでいう「発明」とは、特許に記載された技術的アイデアだけを意味しません。

  • 盤や駒を変えること。
  • 時間の測り方を変えること。
  • 人間と機械の関係を組み替えること。

すなわち、ゲームを成立させる前提条件そのものを設計し直す行為を、広い意味での「発明」として捉えます。

本記事では、元世界王者が発明者である特許情報も参考にしながら、チェス界の「発明」をたどっていきます。そして同時に、あらゆる知的アウトプットが生成AIによって自動化されつつある現代において、人間が意識したい「次の一手」も考えていきます。

1. カパブランカ(José Raúl Capablanca, 1888年 – 1942年, キューバ):盤と駒を広げようとした王者

外交官であった第3代世界王者カパブランカは、チェスの理論が進歩しすぎることで、「トップ棋士同士の対局は引き分けに収束していく」という懸念を抱いていました。

将棋における引き分け「千日手」は、そう頻繁に発生するものではありません。しかしチェスの場合、実力が拮抗していると、引き分けが驚くほど多いのです。

極端な例は、2018年の世界チェス選手権。マグヌス・カールセン対ファビアーノ・カルアナ戦では、12局すべてが引き分けとなりました。世界最高峰の舞台で、通常の持ち時間による全対局が引き分けに終わったのです。(参考:World Chess Championship 2018: Carlsen vs Caruana | Chess.com

これは、チェスが高度に研究されるほど勝敗がつきにくくなる、という問題を象徴する出来事でした。

そのような問題意識を20世紀前半から抱いていたカパブランカは、より広い盤と新しい駒を用いる「Capablanca chess」を提案しました。

カパブランカがその構想について特許を出願したわけではありませんし、盤の拡張(10×8盤)や、複数の駒の動きを併せ持つ新駒というアイデア自体は、17世紀にイタリアの司祭ピエトロ・カレラによって考案されています。

Il Gioco de gli Scacchi  拡張盤チェス

Il Gioco de gli Scacchi,1617年(インターネットアーカイブ) 
10×8盤が描かれている

更に16世紀の絵画においては、12×8盤の、いわゆる「Courier Chess」が描かれています。

Lucas van Leyden - The Game of Chess 拡張盤チェス Courier Chess

Lucas van Leyden – The Game of Chess(1508年頃)Wikimedia Commons
よくみると、12×8盤のチェスが描かれている

なので、カパブランカが活躍した20世紀において「盤の拡張と新規駒をつくる」という抽象的なアイデア自体に新規性はありません。しかし、カレラによる提案から約300年後、世界王者であるカパブランカによって拡張盤のチェスが提案されたことで、後世の変則チェスに影響を及ぼすこととなります。

たとえば、Edward A. Trice による米国特許 US6481716B2(2001年出願)は、10×8盤を使う「Gothic Chess」に関するものです。通常の駒に加え、ルークとナイトの動きを併せ持つ「Chancellor」、ビショップとナイトの動きを持つ「Archbishop」といった新駒が登場します。

Gothic Chess Patent Drawing

US6481716B2 より引用(Google Patents リンク
新たな駒 “Chancellor” 40 と ”Archbishop” 39 の動ける範囲は特許図面にも表れている。将棋で例えると、Chancellor は飛車と桂馬、Archbishop は角と桂馬の合体バージョンのような動きが可能となる。

また、Richard M. Spurgeon の米国特許 US9643079B2(2013年出願) で記載される「Tensor Chess」では、従来の駒との相互作用を通じてチェスに新しい感覚を加える “Beast” と呼ばれる追加駒が登場します。

Tensor Chess Patent Drawing

US9643079B2 より引用(Google Patents リンク
新たな駒 “Beast” は「W」で示されている。味方は Beast をすり抜けることができるといった、特殊な機能を有する。

ここで興味深いのは、Gothic Chess の特許明細書の中で、カパブランカの名前と、チェスにおける引き分けの増加という問題意識が明示されていることです。 

『間違いなく、元世界チャンピオン(1921年~1927年)のホセ・カパブランカは、驚異的なチェスプレイヤーだった。』
『カパブランカが提唱した「チェスの現状」という概念は、彼自身の生涯の範囲を少なくとも50年も広げた。1920年代には、マスター級のプレイヤーは同級生相手に約25%の確率で引き分けに持ち込んでいた。おそらくこれが、最終的に次のような婉曲表現が生まれた理由だろう。「よく戦った試合の結果は引き分けだ。」』
US6481716B2 より引用(機械翻訳)

10×8盤の構想自体は少なくとも17世紀にイタリアに存在していたとはいえ、世界王者カパブランカの問題提起が、後世の変則チェス、とりわけ Gothic Chess に影響を及ぼしたことは確かでしょう。

「盤を広げる」「新しい駒を加える」という発想自体は古くから存在していたとしても、具体的なルール構成や駒の組合せ、遊び方の設計によって、発明としての価値が生まれてきたのです。

【ポイント1】新規性が一見なさそうなアイデアでも、時代の課題と結びつくことで発明が生まれ、新しい価値につながることがある。 

2. フィッシャー(Bobby Fischer, 1943年 – 2008年, 米国):時間と始まり方を発明した王者

次に取り上げるのは、第11代世界王者ボビー・フィッシャーです。冷戦期にソ連勢の牙城を崩した米国の伝説的なチェスプレイヤーであり、映画の題材にもなった人物です。 

フィッシャーの発明は、カパブランカとは別の切り口からチェスのあり方を問い直すものでした。しかもフィッシャーの場合、本人を発明者とする特許も存在します。

フィッシャーは、盤の広さも、駒の動きも変えませんでした。

彼が変えたのは、時間と、チェスが行われる開始条件です。

フィッシャークロック

フィッシャーを発明者とする米国特許 US4884255A(1988年出願)は、二人競技で使用されるデジタル時計、いわゆる「フィッシャークロック」に関するものです。チェスをプレイする人にとってはお馴染みの時計ですね。

Chess Clock

チェスクロック(筆者撮影)
手を指した後に上部のボタンを押すと、所定の時間が加算される機能がある。

Fisher Clock Patent Drawing

US4884255A より引用(Google Patents リンク
A INCREMENT REGISTER 35,36  

将棋と同様、チェスにおいても「持ち時間」が重要です。最善手を検討すべく時間を消費し過ぎると、仮にどんなに優位な状況で、チェックメイトまで読み切っていたとしても、時間切れで負けてしまうことがあるのです。

時間配分能力もチェス能力の一種、という考え方もあるかもしれません。

しかしフィッシャーの考えは、特許明細書中で以下のとおり記されています。

繰り返しますが、時間切れが迫る中で数手指した結果に基づいてチェスの勝敗が決まる場合、それは必ずしもプレイヤーのチェス能力を正確に反映しているとは言えません。むしろ、各プレイヤーが時間を適切に配分する能力を反映していることが多いのです。筆者を含め、多くの人が、時間配分能力は競技チェスの勝敗を決定づける重要な要素であるべきではないと考えています。 
US4884255A より引用(機械翻訳)

このような問題意識から、本発明が生まれました。

一手指すごとに一定時間(10秒等)が加算される方式とすることで、上記課題を解決したのです。加算方式でないと、例えば極限状態においては「1秒で駒を動かしてクロックのボタンを押す」という曲芸のようなプレイが求められてしまいますが、一手指すごとに10秒加算されれば、毎手一定の思考時間がうまれるということです。

この仕組みは、単なる時計の改良ではありません。限られた持ち時間の中で、終盤に必要な思考時間をどう確保するかという、チェスの競技体験そのものの再設計でした。

Chess 960 / フィッシャー・ランダム・チェス

さらにフィッシャーは、初期配置をランダム化する「Chess960」、いわゆるフィッシャー・ランダム・チェスも考案しています。

先のカパブランカによる懸念とも通じるとおり、近代チェスでは、膨大な定跡の研究と暗記が勝負を大きく左右します。もちろん、定跡研究もまたチェス文化の重要な一部です。しかしフィッシャーは、その比重が高まりすぎることで、盤上での新鮮な創造性が損なわれるのではないかと考えました。仮に最善手を全て暗記していたら、機械的に淡々とプレイが進んでしまいますからね。

そこでフィッシャーが考えた Chess960 は、駒の基本的な動きや盤面はそのままに、駒の初期配置だけを変える。つまり、チェスというオープンなルール体系を壊さずに、プレイヤーが向き合う前提条件にランダム性を加えたのです。

Chess960 python-chess

Chess960 初期配置例:FENから python-chess で作成(駒画像:Colin M.L. Burnett / GFDL・BSD・GPL) 
端の行に同じ駒(ビショップ)が2つ並ぶなど、初期配置が通常のチェスとは異なる。駒配置が960パターンあることから、Chess960 と名付けられる。

なお「ランダムに駒を配置する」という抽象的なアイデア自体は、少なくとも1792年の論考「チェスの優越(La Supériorité aux Échecs)」にて構想されています(参考:History of Chess960 – International Chess Federation

そしてフィッシャーは、書籍でランダムチェスの「先行技術」の存在を知ったこともあり、より創造的で面白いゲームになるよう Chess960 の具体的ルールを設計していったのです。

一九一〇年に出版されたクロアチア人作家イジドル・グロスの本をラズロから紹介されると、フィッシャーは怒り出した。この本が述べているチェスの変化形はフィッシャー・ランダムの先駆と思われるもので、フィッシャーが考えたルールとまったく同じだったのである。グロスがユダヤ人であることを不満げにいいながら、フィッシャーはグロスとのちがいをつけるため、フィッシャー・ランダムのルールを変えたのであった。

「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯, フランク・ブレイディー著, 文春文庫」P452より引用

対比可能な先行技術のおかげで、発明がブラッシュアップされていくということですね。

フィッシャーは、オープンなルールの周辺で創意工夫を行い、時計については特許も取得。その後、いずれの発明も広く認知され、今もなおチェス界で活用されています。

  • システム全体として体験価値が上がるポイントはどこか?
  • どこで権利を取れば競争優位に立てるか?

といった問いの重要性がわかる、企業における知的財産活動においても参考になる事例です。

3. カマラッタ(Frank A. Camaratta Jr., 1943年 – , 米国):チェスを支える「時間」を再発明した

ここで、世界王者ではない人物にも目を向けてみましょう。

チェスプレイヤーとして活躍した後、1990年に最高級チェスブランド「The House of Staunton」を創業したフランク・カマラッタです。チェスセットの世界的なコレクターでもあります。

フィッシャーによるチェスクロック特許が出願されてから約6年後である、1994年。カマラッタは、フィッシャークロックが有する課題に対する発明を考案しました。米国特許 US5420830A は、時間切れという課題に関する、フィッシャー方式とは異なる「別解」でした。

Camaratta Chess Clock Patent Drawing

US5420830A より引用(Google Patents リンク) 

フィッシャー方式が「一手ごとに時間を加算する」のに対し、カマラッタらの発明は、「手番開始直後の一定時間は、持ち時間を減らさない」というアプローチを取ります。いわゆるディレイ方式ですね。

つまり、同じ時間切れ問題に対して、異なる設計思想・代替技術で向き合っていたということ。ここには、特許実務における面白さがあります。

  • 課題:時間が切れる
     ー解決策1:一手ごとに時間を加算する(フィッシャー方式)
     ー解決策2:一定時間は持ち時間を減らさない(ディレイ方式)

一般的に多くの場合、一つの課題に対し、複数の解決策が存在するものです。穴を開けたければ、ドリルを買うだけでなく、他人に開けてもらうという解決策もあるでしょう。

フィッシャーは「時間を足す」ことで課題を解決しようとしました。一方、カマラッタらは「時間を減らさない」という発想を採りました。

そして特許明細書において、時間を足すフィッシャー方式の課題として、むやみに試合時間が長くなってしまう恐れがある点をあげています。

既存の時計システムの問題点を認識した人物の一人が、世界チャンピオンのチェスプレイヤー、ボビー・フィッシャーです。フィッシャーの米国特許第4,884,255号は、前述の時間制限チェスの問題点を克服しようとするシステムを記述しています。・・・略・・・速い手が複数回あると、一方または両方のプレイヤーの持ち時間にかなりの時間が加算され、試合にかかる合計時間が大幅に延長される可能性があります。これは大きな不利となる可能性があります。トーナメントでは、各ラウンドの開始時間と終了時間を事前にプレイヤーが把握しておくことが重要です。
US5420830A より引用(機械翻訳)

同じ課題を見ていても、人によって着目する観点や守りたい価値は異なります。だからこそ発明は尽きません。ある解決策が生まれた瞬間は、終着点ではなく、新たな発明の始まりでもあるということですね。

そして、チェス時計をめぐる発明の流れには、次章で紹介する世界王者カスパロフも関わっています。

Garri Kimovich Kasparov らを発明者とする国際公開 WO1997003384A1(1995年出願) は、プレイヤーの実力差や対局の展開に応じて持ち時間を管理する手法を提案しています。

Kasparov Chess Clock Patent Drawing

WO1997003384A1 より引用(Google Patents リンク) 

特許庁審査官がサーチした先行文献としてフィッシャーの特許も記載されており、偉大な世界王者たちが「時間という制約をどうデザインするか」でバトンを繋いでいることが、特許という側面からも史実として刻まれています。

Kasparov Patent ISR

WO1997003384A1 国際調査報告(ISR) より

フィッシャー、カマラッタ、カスパロフ。
彼らはそれぞれ異なる立場から、チェスにおける「時間」を再設計しようとしていました。

こうして見ると、チェスにおける発明とは、盤上の駒の動きだけではありません。
一手を考える時間、その時間をどう測るか、時間切迫をどこまで競技性として認めるか。
そうした周辺条件もまた、チェスというゲームの本質を形づくっているのです。

つまり長年かけて形作られたオープンな仕組みであっても、操作感、計測方法、周辺環境など、独自の価値を作る余地が大いにあるということ。

この点は、現代における企業の知的財産活動にも通じます。

基礎技術や標準仕様について特許権が取れない(=独占できない)場合でも、使い勝手、インターフェース、データ取得、保守サービスなどに独自性を置くことで、オープンな基盤の周辺に、権利保護が可能な価値を作ることができるのです。結果、競争優位につながる可能性が出てきます。

【ポイント2】オープンなルールの周辺を設計することで、独自の価値や別解を生み出せる。 

4. カスパロフ(Garry Kimovich Kasparov, 1963年 – , ソ連/ロシア):人間とAIの関係を問い直した王者

そして、第13代世界王者ガルリ・カスパロフです。

前章で見たように、カスパロフはチェスを支えるシステムにも目を向けていた人物でした。しかし彼の名をチェス界の外にまで大きく知らしめたのは、やはり1997年の Deep Blue との対局です。 

1997年、IBM の Deep Blue が当時の世界王者であったカスパロフを破った出来事は、世界に大きな衝撃を与えました。人間の知性の象徴とも見なされていたチェスで、機械が世界王者に勝利したのです。

ここで紹介したいカスパロフの偉大さは、敗北の先で、人間とコンピュータが協働する可能性に目を向けたことです。それが、人間とコンピュータがチームを組んで戦う「Advanced Chess」、あるいは「Centaur Chess」と呼ばれる発想です。

AIが人間よりも正確に計算できるなら、人間は何をするのか。

これは、現代の生成AI時代にそのままつながる問いです。カスパロフは、人間と機械の関係を「対立」から「協働」へと押し広げました。ケンタウロスのように、人間が他の何かと合体・・まさに、昨今の AI コーディングのような考え方ですね。

2007年出版の書籍中にも、その姿勢についての記載があります。

われわれはコンピュータではないので、読みが完全無欠になることはない。だがコンピュータを目標に関連づけ、人間の経験と本能で導けば、分析は概して適切なものになるはずだ。ビジネスの世界でも、コンピュータと対立するのではなく、協働することが利点となる。

「決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣, ガルリ・カスパロフ著, 近藤隆文訳, NHK出版」P89より引用

その後、人間とコンピュータが協働する形式はチェスの大会にも取り入れられ、興味深い結果を生みました。なんと、コンピュータを使用したアマチュア2名のチームが、同じくコンピュータを使用するグランドマスター(*)を含む強豪チームを抑えて優勝したのです。(参考:Dark horse ZackS wins Freestyle Chess Tournament | ChessBase

(*)グランドマスター:チェス界最高の称号。約1,500人-2,000人存在する。

単に高性能な技術を導入すればよいわけではなく、人間と機械をどのように組み合わせるのかという「協働の設計」が、勝敗を左右しました。 現代の企業活動に置き換えると、DX や生成 AI の導入自体を目的化するのではなく、業務のどこで使い、どのように成果へつなげるのか、までの設計が重要ということですね。

  • AI が最善手を読む。
  • AI が文章を書く。
  • AI が画像を作る。

では、人間は何をするのか?

その問いに対する一つの答えは、カスパロフが提唱するように、AI との協働。そしてさらに、AI が参加することで変わった「ゲーム」の前提条件を、人間がもう一度設計することだと思います。ここでいうゲームとは、もちろん娯楽という意味だけでなく、企業活動からスポーツ、さらには人生をも包含するものです。

【ポイント3】AI を対立相手として見るのではなく、人間の能力を拡張する協働相手として設計する。 

5. AI 時代に、人間は何を発明するのか

生成 AI に「新しいチェスのルールを考えてください」と入力すれば、AI は一瞬で何十もの案を出してくれるでしょう。

その多くは、それなりに面白く、それなりに整っているはずです。
では、人間は不要になるのでしょうか。

私は、そうではないと思います。

AI が得意なのは、膨大な情報をもとに、もっともらしい選択肢を並べること。

しかし、その中から何を選び、何を社会に実装し、どのような価値として育てるのかを決めるのは、少なくとも今のところは人間です。

無名の AI が出力した新ルールと、元世界王者のボビー・フィッシャーが自身の問題意識から設計した Chess960 では、社会の受け止め方は異なります。

単に「人間が作ったから偉い」という話ではありません。

そこには、時代への違和感、問題意識、葛藤、そして人間による「物語」があります。

AI は、フィッシャーが言いそうな発言やアイデアを、文章として出力できるかもしれません。しかし、それはフィッシャーが実際に生きた時代の中で、定跡研究への反発や、自らのチェス観と向き合いながら Chess960 を構想したという物語そのものではありません。

しかもフィッシャーという人物の物語は、光と影のコントラストが激しいものです。世界王者となった後、彼は表舞台から遠ざかり、晩年には成田空港で逮捕されることにもなります。そしてこの件を受けて、将棋の羽生善治三冠(2004年当時)から、当時の小泉首相にメールが送られるという出来事もありました。これはもう、物語としてあまりにも唯一無二です。

内閣総理大臣 小泉純一郎様
拝啓 時下ますます御清祥のこととお慶び申し上げます。さて、現在、チェス元世界チャンピオン、ロバート・ジェームズ・フィッシャーさんが(茨城県)牛久の東日本出入国管理局に拘束されています。フィッシャーさんはチェスの世界のモーツァルトのような存在で・・・
「伝説のチェス王者」フィッシャーを救え, 文藝春秋, 2004年11月号, P218より引用

私たちが物事に価値を感じるのは、機械的に生成された情報だけによるものではありません。それが誰によって、どのような背景から生まれたのかという「物語」にも、心を動かされるのです。

フィッシャーは、長年世界王座を独占していたソ連勢を破った米国人でした。1972年の世界選手権は冷戦下の象徴的な対決として大きく報道され、彼は米国で国民的な注目を集めました。その結果、「フィッシャー・ブーム」と呼ばれるチェス人気の高まりが生まれ、多くの人々がチェスに興味を持つきっかけとなったのです。 

フィッシャーはその過激な言動から、歴史的な評価が非常に難しい人物です。晩年の反ユダヤ主義や陰謀論など、彼の思想に賛同できる人は少ないでしょう。しかし、そんな彼が生んだ Chess960 やインクリメント方式のチェスクロックは、今なおチェス界に大きな影響を与え続けています。

人間の生み出す物語や功績には、しばしば光と影の両面があるということですね。フィッシャーという存在は、その複雑さを象徴する一例かもしれません。だからこそ私たちは、人物やアイデアを一つの側面だけで評価するのではなく、その全体像に目を向ける必要があるのだと思い知らされます。

【ポイント4】AI が選択肢を出す時代だからこそ、人間は何を選び、どう実装し、どんな物語を与えるかが問われる。 

6. 結論:人間に残された「次の一手」

以上、チェス界の発明や特許情報を手がかりに、チェス史のほんの一部を眺めてみました。プレイ人口が6億人とも推定される世界的ゲームであるだけに、チェスには興味深い観点が数多くあります。

カパブランカは盤を広げ、フィッシャーは時間と始まり方を変え、カマラッタはフィッシャーの発明に対する別解を設計し、カスパロフは AI との協働へ視点を移しました。

彼らに共通するのは、単にチェスが強かったことではありません。

オープンなチェスの周辺で、前提を疑い、よりよいゲームを目指して発明をしたことです。

与えられたルールの中で最善手を探すだけでは、見えないものがあります。

AI が現行ルールの最善手らしきものを次々と示す時代だからこそ、私たちは前提条件や周辺環境に目を向け、「どんな未来にしたいのか」を問い直し、意思を持って選ぶ。そしてその選択に、自分たちなりの物語を宿していく。

これこそが、AI 時代を生きる私たちの「次の一手」なのでしょう。

7. おまけ:世界王者たちの意外な発明・特許

エマーヌエール・ラスカー(Emanuel Lasker, 1868 – 1941年, ドイツ)

本文では、チェスや競技を支える条件、道具、人間と AI の関係に関する発明を紹介しました。しかし、世界王者たちの関心は、ときにチェスというフィールドを大きく飛び出していたのです。

たとえば、第2代世界王者のエマ-ヌエール・ラスカー

アインシュタインとも親交があり、カパブランカに敗れるまで、「27年間」という世界王者在位最長記録を誇るプレイヤーです。

世界王者在位中である1901年には、戦争を題材としたゲームについての特許を出願しています。

Lasker Patent Strategic Game

US690656A より引用(Google Patents リンク

そして彼はチェスの改良にとどまらず、1911年には「Laska」という独自の戦略ボードゲームを考案しました。こちらもやはり、世界王者在位中の出来事。ラスカーは挑戦者をはねのけ世界王者タイトルを保持し続ける一方、全く新しいゲームを作る側にも回っていたのです。

Laska Lasca

Laska(筆者撮影)

ミハイル・ボトヴィニク(Mikhail Moiseyevich Botvinnik, 1911-1995年, ソ連)

さらに驚くべきは、第6代世界王者のミハイル・ボトヴィニクです。

ボトヴィニクはチェス世界王者であると同時に、電気技術者であり、コンピュータチェスの先駆者でもありました。コンピューターとの協働を提唱したカスパロフの師匠でもあります。そしてソ連時代には、障害物や溝を越えるために戦車をジャンプさせる装置に関する発明にも関わっていたのです。

Tank Jump Patent Drawing

SU61209A1 より引用(Google Patents リンク

盤上のナイト(騎士)だけでなく、現実世界の戦車まで跳ばそうとしていたというのは、何とも興味深いです。チェスのナイトが駒を飛び越えるように、ボトヴィニクもまた、現実世界の障害を技術で乗り越えようとしていたのかもしれません。

ラスカーは新しいゲームを考え、ボトヴィニクは戦車を跳ばす装置に関わった。

その痕跡を、いま私たちは特許情報からたどることができます。

特許とは、発明を独占するためだけの制度ではありません。ある時代の人間が、何を課題と感じ、どのような未来を構想したのかを、公開情報として後世に残す仕組みでもあるのです。

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