はじめに
2024年4月から放映されているNHKの朝の連続テレビ小説「虎に翼」は、日本初の女性弁護士の物語です。
ところで、女性弁護士より先に、女性弁理士が誕生していたことをご存知でしょうか?
本記事では、初の女性弁理士である井上清子氏(以下敬称略)についてご紹介します。「虎に翼」の主人公と同時代に生きた井上はいったいどのような人生を辿ったのでしょうか。
参考文献:
日本初の女性弁理士が生まれるまで
「虎に翼」では、主人公の寅子が女性であることを理由に弁護士になれないというエピソードがあります。これは、弁護士資格に「日本臣民ニシテ・・・成年以上ノ男子タルコト」という規定があったためです。
一方、弁理士試験にはこのような規定はなく、形式上は男女共に門戸が開かれていました。しかし、女性受験者の願書を受理すべきかについて、当時の弁理士試験委員のあいだにも戸惑いがあったようです。
そんなことがありつつも、弁理士法には「成年以上ノ男子タルコト」という文言が無いことが決め手となり、井上の願書は無事受理されました。
受験を決意した井上はどのような心境だったのでしょうか。
井上が受験をした昭和9(1934)年は不況の真っ只中、しかも闘病の末亡くなった父が残した借金があり、有力者への伝手もない。こんな状況で弁理士になったとしても、やっていけるのかどうか‥そのような心配があったそうです。
それでも受験を決意した心境について、井上は以下のように書き残しています。
それほど心配ならば止めればよいのに、もう一つの自分は、やはりその封筒から手を離しました。ポストの中が空だったのでしよう「ポトン」という音がきこえました。とたんに「ハッ」とし、「これは容易ならぬことになった。」と、その時二十六才の私は思っていました。
辨理士井上清子特許事務所創立四十周年の歩みより引用
心配を抱えつつも覚悟を決めた様子が伝わってくる文章です。
そんな井上は昭和 10(1935)年に晴れて弁理士試験に合格。これは「虎に翼」のモデルとなった三淵嘉子の合格に先立つこと5年前のことでした。そう、女性弁護士より先に、女性弁理士が誕生していたのです。
そして、これは同時に士業としても女性第一号でした。他士業では、弁護士が昭和 15(1940)年、税理士が昭和 17(1942)年にそれぞれ女性第一号が誕生しています。なお、公認会計士、行政書士、社会保険労務士の女性第一号の誕生は戦後のことです。
開業、しかし世の中は戦時下へ
弁理士試験に合格した井上は、さっそく自宅の一角を改装して事務所を開業しました。開業当初は色々と苦労もあったようですが、事務所経営も徐々に軌道に乗ってゆきました。
しかし、世の中は戦時下へ突入。昭和19年(1944年)頃になると、東京もしばしば空襲にみまわれるようになりました。その頃は、一日の執務が終わると、仕事道具を防空壕にしまってから眠りについていたそうです。
そのような中、事務所は昭和二十年(1945年)の東京大空襲で焼失してしまいます。事務所は焼けてしまったものの、防空壕にしまっていた仕事道具は焼失を免れました。井上はそのことを「何より有難いこと」と書き残しています。
井上は、戦争を通じて感じたこととして以下の三つを挙げています。
一つ目は、発明者は本当に力強くかつ明るいということ。
二つ目は、弁理士がそのような人(発明者)を対象とすることの幸福。
三つ目は、戦争により壊滅状態になりながらも治安等が維持され、人々にもそれ相応の心構えがあったこと、ひいては日本という国、日本人の強さ。
事務所焼失という過酷な経験を経ながらも前向きさを失わない井上の人柄がうかがえる文章です。
事務所の発展、そして女性弁理士の会「紫青会」の設立
戦後復興の流れと相まって井上の事務所も発展。様々な仕事を請け負うことになります。
例えば、「九重手織り機」の発明とその普及に尽力した九重年支子(坂野敏子)を代理したのは井上の事務所です。九重は婦人発明家協会の創立で知られ、日本の女性発明家の草分けとも呼ばれています。
ちなみに、九重は海外進出にも積極的であり、フランス、アメリカ、ブラジル等世界各地で手織り機の実演を行っていました。
もちろん海外でも知財の権利化も行っており、フランスで特許出願をした際には井上の事務所を通じて現地事務所とやり取りをしました。
井上は対外活動にも積極的に取り組んでいました。弁理士会、弁政連(日本弁理士政治連盟)、そして当時発足したばかりの国際工業所有権保護協会(AIPPI)の評議員も務めていました。このような積極的な活動からは、知財業界をより良くしようという思いがうかがえます。
そんな井上は、女性弁理士の会「紫青会」の設立にも尽力しました。井上は紫青会の初代会長にも就いています。
紫青会では、女性弁理士どうしの交流、勉強会や懇親会、そして会誌(紫青会 : 女性弁理士の会)の編纂などが行われていたようです。
会誌編纂当時(昭和54年(1979年))、弁理士登録者の女性比率はわずか1.8%、人数でいうとたったの44名でした。
現在では弁理士の女性比率が約17%、合格者の女性比率だと約37%(いずれも令和5年(2023年))まで上昇していますから、当時の女性比率がいかに低かったかがわかります。そのような状況下で女性弁理士たちが団結し、地位向上のために尽力していたのです。
ところで、紫青会は現存していないものの、その流れを汲む活動は脈々と続いています。
現在活動をしている会としては「知財女子会オンライン」があり、おもにオンラインで活動を行っています。気楽な懇親会から真面目な読書会まで様々な活動が展開され、筆者も時折参加しています。
※ちなみに紫青会は対象を弁理士に限っていましたが、「知財女子会オンライン」は弁理士に限らず、広く知財業界の方が参加しています。ご興味のある方はお気軽にお問合せください。
井上が切り開いていった女性弁理士の道は現在も脈々と受け継がれています。
おわりに
本記事では、日本初の女性弁理士井上清子についてご紹介しました。今回の記事執筆を通じて井上の功績を知ることができたのは、女性弁理士の後輩である筆者としても非常に意義深いものでした。
日本初の女性弁護士が話題の今、日本初の女性弁理士のことも皆さんに広く知っていただきたいと思います。