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知財と自分史(著:晴太 優)-第1回「知財とアレ」エッセイ大賞 入賞作品

本記事は、 第1回「知財とアレ」エッセイ大賞 における受賞作品を著者の承諾を得て掲載するものです。
他受賞作の情報はこちら (22年10月に順次公開)
※大賞は2作同時受賞となります。

第1回 入賞作品 審査コメント
今年、70歳の古希を迎えられた企業開発職の方からの投稿です。
経済的理由で大学進学を諦め、「学歴コンプレックス」に苦しみながらも、「知らないからこそ新しい発見があり、より多く学ぶ機会がある」と考え直し、70件以上の特許に携わったという人生のドラマ。今でも現役で新商品開発に関わり続ける情熱。
きれいに整理された「自身の出願特許・実用新案リスト」に、人生の年輪を感じました。キャリアに悩む知財関係者の方にも読んでいただきたい作品です。

素晴らしいエッセイをぜひお楽しみください!

 

『知財と自分史』

1.はじめに

今年、70歳になる。「古希」という節目を迎え人生を振り返ることが多くなった。

1971年に高校を卒業して、国内最大手の合成繊維会社に入社してから51年になる。昨今、「老害で職場のお荷物」、「いや、貴重な戦力」などと議論の分かれる高年齢労働者として、現在も働いている。

振り返れば、繊維業界の川上産業であるナイロン糸の製糸工場に入社し、次いで川中産業になる維製品の高次加工(製織、製編、染色仕上げ、縫製、評価技術)の研究開発部署に転籍になり、58歳で長年勤めた合成繊維会社を早期退職して、スポーツアパレルに転職した。

定年退職の60歳を前にして、長年培ったスポーツ用途の衣料素材開発技術を活かすことができ、かつ繊維の川下産業であり華やかに見えるスポーツアパレルの業務を経験したかったのである。また、同時に定年となる60歳を過ぎても65歳程度まで勤められることも転職の理由であった。

一見、計画的にスキルアップするために川上産業から川下産業を意識的に経験した様に見えるが、特に計画したものではなく、偶然にも恵まれたキャリアを積み重ねさせていただいた。

 

しかし、幼少期から高校生時代までの私は、家が貧しく大学に行けずに高卒で働かなければならない、という自己否定感が強く、自身の進路に自ら蓋をしていた。

成績では決して負けていないのに、私よりかなり成績の低いクラスメート達が大学に進学するのを目の当たりにして、親のせいで大学に行けないと境遇を恨んだこともあった。

受験勉強をしている人達は、勉強の苦しさや辛さなどを言うが、進学したくても学校に行けない人の苦しさを考えたことがあるのか、などとひがみ根性でいっぱいであった。

ひがみ根性が、「学歴コンプレックス」となって、その後の生き方に大きく影響し積極性に欠けていた。 

 

そんな私であったが、ある時考え方を改める日が来た。

高卒で入社した会社の寮で同室だった先輩であるが、2つ年下の中卒入社の彼は、島根県から名古屋市に集団就職して同じ会社に入り、私が卒業した工業高校の夜間部で勉強していた。その彼が、4年掛けて卒業した後に東京理科大に合格して会社を辞め東京に旅立って行った。

それだけでも衝撃だったのに、別れる時に彼が言った「4年間で貯めたお金と、今後のアルバイトで学費や生活費は何とかなると思います」という言葉に打ちのめされた。

私は、親のせいにして自ら努力せず境遇を恨んでいた。彼に比べたら、私は恵まれている。大きな苦も無く高校生活をすごして授業が楽しいと思えたこともあった。親のせいと甘えずに、自分の進路は自分で切り開き他人に頼らず生きていこう。との思いを新たにしたが、なかなかうまくいかないのが人生である。

数年後に私は、企業内研究所に転籍し周りは旧帝国大学の院卒ばかりという超高学歴職場の研究補助職として、再び「学歴コンプレックス」に苦しむことになる。

しかし、旧帝国大の院卒ばかりの中の数少ない高卒社員という境遇が幸いして「学歴コンプレックスは、私の個性である」と考えられる様になった。身体障碍者の方が言われる「健常者と異なり、不自由な点があるのは、我々の個性です。不自由であるからこそ、それを補った足り、別の能力を身に着ける努力をする」という言葉が突き刺さった。

「そうか、学歴コンプレックスは私の個性だ。と考えたらいいのだ。学歴が皆から劣るから、知らないことが多い。知らないからこそ新しい発見があり、自ら学ぶ機会ができる」と考え、日々の業務の心構えとした。

 

また、人生訓として様々なビジネス書に「年下でも、部下でも、男でも、女でも“さん”付けで呼ぶ」ということがよく書かれている。私の場合は職場において10年年下の新入社員でも院卒入社であり数年後には、私より職級が上になる。“くん”付けで呼んでいたら数年後には“さん”付けに呼び方を変える必要性が出てくる。

初めから全員を“さん”付けで呼んでおけばいろいろ考えなくてよく、自分のプライドも傷つかない。そんなことは、我々の境遇では当たり前のことであり、わざわざ人生訓として本に書く人は上から目線であり恵まれた境遇にある人の言葉である。我々の境遇では、当たり前の常識である。

学歴コンプレックスが私を育ててくれ、上司も、同僚も、部下も難関国立大学の院卒社員ばかりの職場で高卒でありながら“素材・商品設計室長”という役職にも就けた。

 

高卒で研究開発部署の責任者になることは、まずあり得ない昇格である。おまけに、70数件の特許出願を成すことができた。出願した特許は職務発明であり会社に譲渡しているので、私にとっての経済的価値はないが、特許の明細書は永遠に記録される。特許庁のホームページで氏名などのキーワードを入れて検索すれば、誰もが私の出願特許を読める。

これらの特許は、私の業務履歴であり業務結果の報告書でもある。私の歴史である。未来永劫記録が残る“私が生きた証”でもある。

 

2.生い立ち

両親ともに学歴が低く、子供の教育には、ほとんど関心がない貧しい家庭で育った。だが、その割には学校の成績は良い方だったと思う。学期末の通知表は、それなりに高く親に褒められたくて、勇んで親に見せ捺印を求めたこともあったが、親からは成績について褒められたことは一度もなく、機械的に捺印して返された。何年かそんな状態が続いたので、親に見せるのも止め、自分で捺印して学校に返却する様になった。中学生や高校生になってからも、親から通知表を見せろと言われたことはなかった。

5人家族で6畳と4畳半の2間の長屋住まいであり、勉強する環境もなく、住んでいる地域に大学生という存在はなく、大学進学を考えることすらなかった私は、1968年に就職に有利な工業高校を選んで入学した。

高校での授業は、特に数学と物理の授業が面白く、興味深く授業に集中できた。面白いので教室での席も一番前を希望する様になった。その結果、他の科目もそれなりに聞いていたこともあり、定期試験の席次は絶えず上位にあった。2年生になると、クラスの半分くらいの人が大学進学を宣言して進学組と就職組に分かれてきた。勿論、私は就職組であったが、数学と物理の成績はクラスでトップを維持していた。特に微分・積分が面白くラプラス変換などが理解できる様になると、より上級の学校で学びたいという意欲がわいてきた。でも家庭の経済状況は、それを許してくれない。

 

今、考えたら、高校生の時もアルバイトをしていたので奨学金を受けるなり、アルバイトの継続などで学費は何とかなったかも知れない。しかし、身近でそんなことを進めてくれる人もいなかった。自分で学費がどの程度必要なのかを調べもしなかった。

担任の先生に相談したところ会社によっては、教育制度の整ったところもあるそうで、一番のお勧めとして国内最大手の合成繊維会社への就職を勧められた。入社3年後に選抜試験を経て、企業内にある“技術専門学校”で1年間仕事を離れ学ぶことができるそうである。社内講師以外に京都大学や京都工繊大学、同志社大学の教授の講座もあるとのことである。

 

3.高卒で就職

正直なところ、大学へ進学すべく入試に備えて勉強している人達が羨ましかったが、給料を貰いながら学べるのであればその進路もいいのではないか、と自分を説得した。

1971年3月に、希望する合成繊維会社に就職した。地元の名古屋市にある工場に勤め、入社3年後に5倍程度の選抜試験にパスして社内の滋賀事業場に設置された“技術専門学校”で1年間学んだ。

卒業後に社内の繊維研究所に移動になった。工場勤務から企業内研究職への転籍である。しかし、旧帝国大学の院卒の人が多い超高学歴職場であり、高卒の場合は研究補助職の実働要員であった。研究補助職であっても、5年くらい業務を経験すると新しい機能性の開発も担当できた。

 

しかし、難関国立大学院卒と高卒では学歴差により教育制度や処遇が大きく異なる。院卒の人は入社2~3年で、高卒入社10数年の私の職級を簡単に追い越して行く。

上司との業績面談でも「院卒2~3年の人と比べたら、君の業績の方が確実に大きいのですが、彼らには将来性という期待値があることを理解して下さい」という説明で職級は、なかなか上がらない。彼らには将来性があるが、私には将来性は無いらしい。

高卒組では、定年までに5%程度の業績優秀者しか課長職に到達できない。しかも、高卒組は研究職の課長職への昇格はあり得ない。課長職になるためには、研究所を離れ生産部門や品質管理部門に移籍になる。

 

当時の私は「我慢は給料の半分」をモットーとして、自身に「今の仕事で頑張ろう」という暗示をかけていた。仕事は面白く、学べることも多いのだが、廻りは院卒ばかりで学歴コンプレックスに悩んだ。工場勤務を希望した方が楽かな。転職しようかとも考えるが、仕事の内容や働き甲斐と給与の多寡などを考えると家族を持つ身としては、安易に転職で収入が減る様な選択はあり得ない。

さらに高みを目指すためには、狭い範囲でもいいので院卒に負けない。会社でトップレベル、いや業界でトップレベルという誰もが認める技術領域を持とうと考える様になった。

担当している繊維の高次加工分野では、紡績・糸加工・織・編・染色・機能加工・縫製・評価という技術区分があり、スキル面でいずれかの領域で専門職になることが望まれている。しかし、いずれの領域も超高学歴の人で満たされている。

高卒では、ベテランの技能職にはなれても研究開発職としては認められることはない。であれば、狭くてもいいので新しい技術領域での研究開発職を目指そうと考えた。

幸いなことに、当時、世の中に無かった“防水透湿素材”という新しい衣料素材の開発を担当していた。世の中に無い商品であり、職場内は勿論、社内でもこの素材を扱っている人は一緒に研究していた当時の直属の上司しかいない。

 

この技術を極めれば社内どころか業界トップレベルの研究者もしくは技術者になれる。

参考になる学会誌の論文や専門書を読み込んだ。その上で仮説を立て試作・評価を繰り返した。

 

4.職務と特許出願

1970年代後半からスキーの大ブームが始まった。1987年に原田知世さんが主演の映画「私をスキーに連れて行って」が挿入歌の松任谷由美さんの「恋人はサンタクロース」と共に大ヒットし、1990年から数年間は日本のスキーウエア市場が4000億円/年を越えるまでに需要量が急拡大した。担当して開発した新しい衣料用素材である“透湿防水素材”の市場展開時期がスキーブームにぴったり当てはまり、恐ろしい勢いで売り上げを拡大していった。

“防水透湿素材”は、雨水や風は通さないが、汗の水蒸気は通すという衣服用の素材である。特にスキーやアウトドア用途に適した生地である。1976年に米国でGORE社から発売された“GORE-TEX”が世界で最初に発売され、日本では、1978年頃から展開された。

やや先を越された感があるが、すでに検討を進めていたので、私が勤める会社からも全く別の技術で1979年に日本で“エントラント”という防水透湿コーティング素材を発売した。この2つの素材が、当時日本で流行っていたスキーブームで激しく競合した。 

 

外から衣服内への水の侵入を防ぐ防水性が有りながら、汗は衣服外へ放出する透湿性を有する2つの相反する機能を持つ“防水透湿素材”は、2つの会社から発売されるまで世の中に無かった新しい衣服素材である。過去の防水性だけの衣服素材からの置き換えを含めて売り上げが大きく伸びたことから、繊維関係の繊維機械学会や繊維製品消費学会から学会誌への執筆や講演の依頼が多くなってきた。

時に、私にも対応する順番が回ってくる。あまり望まなかったが、会社からの命令である。幾度か対応した。

しかし、学会での報告者はすべて難関大学の院卒の方々であり、報告前の座長の紹介でも必ず「●●大学の大学院を何年度に卒業され、現在にいたって居られます」との枕詞が付く、私の場合は会社名の紹介のみとなる。座長に悪意はないのであろうが、学歴コンプレックスを持っている私には堪える。

 

学会では、やはり学歴は必要であろう。学歴を否定したら学会がなりたたないと思う。学会は私の居る場所では無いと感じた。学会から少し距離を置き、特許出願に注力した。

学会誌の論文や報告文には、著者の学歴が記載されるが、当然ながら特許には、特許権者の記載はあるが、発明者の氏名のみで学歴を記載する欄がない。

その影響かも知れないが就職してから現在までに私が書いた学術論文はさほど多くないが、携わった特許・実用新案の出願件数は70数件になる。

 

私が勤めた会社では、特許明細書は研究者や技術者がほぼ全文を記載する。拒絶理由通知に対する中間処理や担当分野の他社特許ウォッチから、新製品販売時の他社特許確認も同じく研究者や技術者が実施する。勿論、知的財産部の社内弁理士の方に協力いただくが、基本的には特許に関する責任は開発を担当した研究開発部署が担う。したがって、特許明細書はそのほとんどは発明者が執筆した文章である。

後年に勤めたスポーツアパレルでは、担当弁理士の方に発明の概要を記載したメモをお渡し口頭で説明することで公知特許も調べて頂けるし、明細書も書き上げていただける。特許に対する責任は知的財産部になる。会社によって、特許に対する発明者の取り組み深度が大きく異なる。

幸か不幸か、私の出願した特許明細書は、自身で実験や試作評価した結果を整理して得られた新規確認事項から起案した請求項をもとに自身で記載した文章である。その意味において特許明細書は、自身の研究報告書とも考えている。

 

表-1:自身の出願した実用新案および特許の一覧表出典:特許情報プラットフォーム)

この表-1は、私が出願した実用新案と特許を出願年代別に纏めた一覧表である。私の職務経歴である。

特許が公開された年代ごとに整理している。私が成した仕事やどんな商品や技術を開発してきたかが一目瞭然である。出願した年代の時代背景や生活様式をベースにして当時どのような衣料用繊維製品が望まれていたのか、また私自身が何に興味を持って新商品開発を進めていたのか、などを読み取ることができ当時の自分を振り返ることができる。その中で赤数字で示した特許が、私のライフワークとなった“防水透湿衣料素材”に関する特許である。

前述したとおり、“防水透湿衣料素材”は、スキーウエアの要求特性にぴったり当てはまりスキー市場の拡大と共に大きく売り上げを伸ばした。

米国で発明された“GORE-TEX”と日本生まれの“エントラント”の両社による「日米“防水透湿機能衣料”素材開発戦争」が勃発し、そこに新たな企業も参入して1980年~2000年程度まで年を追うごとに新商品開発競争が激しくなった。参入企業が多くなったことから“特許係争”も幾つか発生した。

“防水透湿衣料素材”の40数年に亘る開発史については、別の機会に詳しく述べたいと考えている。

次章では、表-1の中でも多くの方に興味を持っていただけると思われる「青数字で示した3点の特許」をご説明させていただく。

 

5.出願した特許の代表3点

(1)感温変色による蓄熱機能の自動制御(カメレオン繊維の発明)

私の出願の中で、最も皆様に面白いと思っていただける特許は、感温変色剤を用いた太陽光による蓄熱機能の自動制御に関する特許02551137号だと思う。

次の図に、開発した生地を用いたスキーウエア“ケルヴェインサーモ”のテレビCMの一部を示す。

 

図-1: 開発した“ケルヴェインサーモ”のTVCM(出典:YouTube) 

温度によって色が変化する“感温変色インキ”を用いた技術である。同機能を有する“感温変色インキ”を用いたボールペンが、現在でも擦ると色が消えるボールペンとして大ヒットしている。ボールペンの場合は、擦って温度が上がると有色から透明色に変色なって元の色に戻らない可逆性の無いインキを用いることで字が消せるボールペンとして販売されている。

私の場合は、同じメカニズムの“感温変色インキ”をボールペンよりかなり早い1989年にスキーウエア用途で用いて大ヒットした。私が用いたのは温度が高くなると淡色になり、温度が下がると濃色に変化する可逆性のあるインキを使用した。

着用時に環境温度が高くなり暖かくなると白などの淡色になり、環境温度が低く寒くなると黒などの濃色に変化する機能をプラスした“防水透湿衣料素材”を発明した。濃淡に変化する色の組み合わせや、変色する温度を製造段階で自由に設定できる。

すなわち暖かくなると太陽光を吸収せず、寒くなると太陽光を吸収しやすくなり環境温度により保温性をセルフコントロールする“防水透湿素材”である。 

 

1989年にミズノから“ケルヴェインサーモ”ブランドで販売開始された。

この“ケルヴェインサーモ”は、衣服の表面温度が0℃になると濃色(例えば黒色)になり、太陽熱を吸収して暖かくなる。また、衣服の表面温度が5℃になると淡色(例えば白色)に変色して太陽熱の吸収を抑えて涼しくなる。感温変色点の温度は自由に設定できる。スキーウエアの場合は、0℃で濃色になり、5℃で淡色になることで快適な保温機能が得られることを人工気象室で確認試験して変色温度域を設定した。

高野寛さんの「虹の都へ」がコマーシャルソングとなりテレビでCMが流された。この歌のサビの歌詞である「…太陽だけしか知らない二人だけの秘密…」は“ケルヴェインサーモ”の「寒くなると太陽熱を吸収し、暖かくなると太陽熱の吸収を止め、衣服内温度をセルフコントロールする機能」を説明したものある。一般のお客様から“カメレオン繊維”との呼称をいただき爆発的にヒットした。

当時スキー場に行って、20人に一人くらいの割合で着用していただいているのを確認した。時々色が変わるのでよく分かる。多くの人が着用しているのを見て、開発者としてこれほど嬉しかったことはない。

発売から33年を経た今日でもユーチューブで検索すれば、CMを見ることができる。私の代表作品の一つである。

(2)他用途の技術を応用した発明(アプリケーション イノベーション) 

“太陽熱吸収熱変換衣料素材”であり、太陽光を吸収して衣料の温度を上げ暖かくする保温衣料素材である。青字で示した特許02699541号に記載の素材は、屋根の上に設置して太陽熱で風呂のお湯を沸かす太陽熱温水器に用いられている太陽熱を吸収する塗料に含まれるソーラーアブソーバーを防水透湿膜の中に添加した発明である。

 

図-2:開発の参考にした太陽熱温水器例(出典:インターネット画像)

他用途の太陽熱温水器の昇温メカニズムを衣服に用いたのである。上述の“ケルヴェインサーモ”より1シーズン早く、太陽熱を用いた世界初の保温機能衣料素材である。

1988年にアシックスから“キリー”ブランドのスキーウエアとして販売開始された。スキーやアウトドア用途の“防水透湿素材”に太陽光吸収熱変換機能を持たせた画期的な素材であり、大好評であった。この技術思想を応用して現在でもいろいろな会社で類似した太陽光吸収熱変換素材が衣料用途で展開されている。

(3)記録的な権利化阻止活動を受けた出願(権利化しなかったことを後悔)

3つ目は、特開平09-296367である。前述の2つの特許と異なり商品化する予定が無くなったこと、および私が他部署に移ったので、社内ルールにより以後の中間処理は後任者に託した。審査請求後の特許庁からの拒絶理由通知に対する補正および意見書の提出についても後任者が実施している。

後任者も本出願の対象商品開発は中止していることが分かっているので権利化しようとする意欲が乏しくなり、フォローもしていないようである。少しおざなりな中間処理であったと思う。後任者もこれほど多くの「ファイル記載事項の閲覧請求書」が出ていたことを調べていなかったのだろう。分かっていたら、拒絶査定に対し不服審判しているはずだと思う。少なくとも、私に連絡があったと思う。

 

最近になって、過去の出願特許を確認していてこの審査経過を知った。

特許の内容は、マイクロカプセル化された皮下脂肪調整剤がバインダーにより衣服用生地に固着されていることを特徴とした特許である。皮下脂肪調整剤とは、脂肪の分散、水分の代謝促進作用及び肌を引き締める収れん作用があり、またセルライトを除却する作用がある化粧品である。

簡単に言えば、着用するだけで身体の脂肪を調整しセルライト(お腹や太ももに溜まった老廃物が溜まった皮下脂肪)を除去してきれいな肌を保つ衣服素材の特許である。

この技術以外にもパンストやキャミソールなどのレデース肌着や睡眠時に着ける肌荒れ防止の手袋やソックスにスクワランなどの保湿剤を固着させ着るだけで肌にうるおいを与える素材を検討していた時期に出願した特許である。

商品化の計画が無くなったので、あまり注目していなかったが、表-2:特開平09-296367審査経過に示すとおり、他社からの「ファイル記載事項の閲覧請求書」が81回も記録されている。

 

表―2:特開平09-296367 審査経過出典:特許情報プラットフォーム) 

 

包帯を取り寄せても、多分ダミーを使いどこかの特許事務所に依頼して請求しているだろうから真の閲覧請求者は分からなかったと思う。しかし、よほどこの特許を権利化されたくなかったのであろう。これほどのあからさまな権利化阻止活動は見たことがない。

 「ファイル記載事項の閲覧請求」や審査官への情報提供である「刊行物等提出」や特許査定された場合の「不服審判請求」を2~3か所から提出して特許審査官に圧力をかける権利化阻止活動をすることがあると言われている。審査官も「ファイル記載事項の閲覧請求」や「刊行物提出」などのある審査は、当業者が注目している特許であり、審査を慎重に行うものと言われている。

定かではないが、「ファイル記載事項の閲覧請求」や「刊行物提出」などがある出願を審査官が「特許査定」した場合、「不服審判請求」が出される可能性が高くなると言われている。「不服審判請求」が出されると担当審査官が変わって複数の審査官による合議審査に進み、時に判定が逆転することがあるからである。

後で他の審査官で構成された複合体での判定が逆転するのは、審査を担当した審査官としては、気持ちの良いものではない。したがって、内容をより精査して確信のある判定を行うことが多い、と囁かれている。がしかし、あからさまにこの作戦を実施する企業はほとんどいないものと信じていた。

しかし、自分で書いた特許がこれほどの権利化阻止活動を受けたことは、今、考えれば光栄である。

自分で書いた特許が誰かに重要視された証拠であり、今となっては嬉しく思う。 ただ当時、「ファイル記載事項の閲覧請求書」がこれほど多く出されていたことを知っていたら、不服審判請求して是非とも権利化してこの会社に売り込めばよかったと悔やんでいる。

 

6.還暦過ぎても特許出願

 58歳で合成繊維会社を早期退職して、スポーツアパレルに転職した。会社は変わったが、業務内容は大きく変わっていない。合成繊維会社では、主にスポーツ用途の衣料素材の新商品開発業務が主体であり、特に“防水透湿素材”の開発が中心であった。時に、営業担当者とスポーツアパレルに同行して新素材の特徴などをご説明したり、スポーツアパレルの企画担当の方に要望される新特性などをお聞きしたりしていた。

 スポーツアパレルに転職した後は、売り買いの立場が逆転して繊維会社や商社の方が持ち込まれる新素材の特徴などをお聞きして、アパレルの商品として今後開発する新商品に用いることができるのか、もしくは、こんな特性の生地が欲しいと要求して繊維会社と一緒になって新素材を開発する。まさに旧職の延長線上の業務である。

 

63歳になった時に前職場の合成繊維会社から帰ってこないか、とお声掛けいただいた。エンドユーザーに近いスポーツアパレルを経験して、繊維産業の川上(原糸)、川中(織、編、染色・仕上げ加工、評価)、川下(縫製、アパレル業界)のほぼ全域を体験した。特にアパレルの商品企画や店頭販売の詳細を知っているテキスタイル開発者は、ほとんどいないと思う。最終のアパレル商品を意識した新機能テキスタイルの開発も面白いであろう。

歳をとったが、お役にたつのであればもうひと踏ん張りしようと思い、昔の会社に復職して古希を迎えた。

 

7.おわりに

我が家は、男は早死に、女は長生きの家系である。戦争の影響もあるが、父方も母方も祖父は40歳代前半で亡くなっている。私は、おじいちゃんを知らない。また、父も50歳代半ばで病死している。

親戚を見渡しても60歳を越える人生を過ごした男子は数少ない。したがって、私も60歳まで生きられたらいいほうかな、と考えていたが、病気を持ちながらではあるが古希を迎えられた。先祖が守ってくれたのかも知れない。

70歳になっても新商品開発業務を続けられていることは、ありがたいことだと関係者に感謝している。

 新商品開発には、知識や経験も必要だが、現状品を注意深く眺め改良点を見定める力や、全く関係ない他用途に用いられている技術や特徴が自分の担当である衣料商品に生かせないのか、といったセンスやひらめきが重要である。残された人生で若い方に繋げていきたい。

 

特許は、もちろん権利を独占するためのものである。そのために費用を掛けて新開発した技術や商品を隠さずに公開する。

後に続く開発者は、先人の発明した技術内容の詳細を知ることができ、さらなる開発や全く異なる技術の開発を進めることができる。技術情報満載の参考文献として用いることができる。

検索することで過去の技術情報を簡単に調べられ、具体的な製法まで知ることができる。特許明細書は、技術報告書と読みかえることもできる。技術思想や技術の進化、さらに他社の実施状況を知ることができる。若い方は、技術の参考書として過去の特許明細書を役立てて欲しい。

 

私の明細書も、同業の若い方の今後の商品開発に役立てば嬉しい。

 

さらに望ましくは、孫やひ孫たちが成長した後に我が明細書群を読み、「じいちゃん、がんばったね」と感じてくれたら、これに優る幸福はない

                                                        (著者:晴太 優)